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今まで正直のところ理解出来なかった感情が、はじめて分かったような気がした という意味で昨日は記念すべき日でした。
その感情というのは「○○が頑張っているから自分も頑張る」というもの。 とりわけ私の両親は昔からこの言葉をよく使った。 誰かが頑張っているからといって、 それが自分の頑張る理由になるということがどうも納得行かなかった。 私が頑張っているからってどうして両親が頑張れるんだろう、理解出来ない。
昨日ふと、私からは見えないところである人が頑張っている、ということを考えた。 嬉しい悲しいつらい寂しい腹立たしい何も考えられないやる気が出ない、といった すべての人間らしい感情を抱えながら、その人は前向きに頑張っているのか。 そういうことを想像していたら、 なぜか何の根拠もなく、自分も頑張れるような気がした。 ○○がある人であったからなのか、ある人とは誰であるのか そこは御想像にお任せするとして、他人が頑張っているということが 自分のやる気の起爆剤になることを私は自分の中ではじめて自覚したのだ。
どうしてだろう。感情は経験したつもりだが、その理由が行方不明だ。 不思議な気分。
記号化された意味は分かっても、どこか自分にしっくりこない言葉というのは 経験していない感情であったり、使用する状況が現実にまれなものであったりするのだろうか。
日本語と対応しているようで対応していない他言語の言葉が 逆に日本語よりもしっくり、理解出来るように感じられることがあるのがなんか面白いと思う。 Distrust, Numbness, Identity とか。 同じように外国人が「侘び寂」や「ヤバイ」などといった日本語を しっくり感じたりすることもあるのかもしれない。
「自分の身体は神様からの借り物だ」
というカトリック世界で当たり前とされている考え方が イタリアで本当に当たり前とされていることを知って、(当たり前にもかかわらず) 地味に衝撃を受けた。それゆえ敬虔なキリスト教徒であってもなくても 変わらず自殺は最大の罪であり、皆が常識的にそう考え、畏れるらしい。 (それほど国自体がキリスト教と切っても切れない関係にある ということはとりあえず置いておくとして) この考え方は本当に日本とは違うものだと感じる。 こういう考え方をする人は日本にもたくさん居るだろうし どこかの宗教も語っていた気がするけど、日本国民には根差していない。 そして私は理解出来ない。そういう意味で自殺が怖くない。 ミケランジェロの最後の審判の絵を見たところで思い留まったりしないだろう。
ミュージカル(映画)「RENT」において
We're not gonna pay Last year's rent This year's rent Next year's rent Rent rent rent rent rent We're not gonna pay rent
'Cause everything is rent
という歌詞のくだりがある。
……。
つまり言いたいのは「自分の身体は神様からの借り物だ」という言葉を理解出来ない、 ということなのですが、「○○が頑張っているから自分も頑張る」という言葉のように 「自分の身体は神様からの借り物だ」も理解出来る日が来るかもしれないですね。 宗教に対する警戒心が半端ない私はとりあえず、 神様を信じるということについて少し考えてみたいと思います。
何か終わりが見えないので終わります。
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