大学生で、ダメっていうのは、
なにがダメなんだろう?
頭の中をよぎるのが、大学の先生たちのこんな言葉だ。
「具体例にしか反応できない人」
「身近な問題しか関心がもてない人」
「卒論が書けない人」
「文章を読んでも筆者が何を言いたいのか要約できない人」
「本やマンガが読めない人」だ。
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わざわざ高いお金を払って大学に学問にきているのに、
ダメな人というのは、ひとつには、
「いまの自分の世界から出られない人」
を言うのかなあと思う。
すべてを、自分側の、狭くちいさな関心に
引き寄せてとらえ、
そこにひっかからないものは、スルーしてしまう。
自分とは遠い、関係のない、スケール感のちがうものを、
つかみにいったり、くらいついたりして、
自分の世界をうんと遠くへ広げることができない。
いや、「広げる術を持たない」と
言ったほうがいいかもしれない。
同じ一冊の本を読んでも、
自分側の狭い世界に引き込んでしまうか、
初めての、とんでもなく遠く、抽象的で、
わからない世界に、
くらいついてとりにいくか?
(
おとなの小論文教室。より)
直接実感出来ない遠い世界の事象を身近なものとして捉え、正しく感じて考えること。
そうだ、それを出来る人に私はなりたかったんだな。
本を読んで理解出来なかったときのもどかしさや、狭い自分の世界での考えしか口にしない人(私もそうなのかもしれない)と話したときの違和感の原因はこの能力の不足にあったのかもしれない。
実は、自分は抽象的なものに対する耐性はある方だ、と勝手に思い込んでいた。
冷静に考えて、耐性って何だ、って話だ。必要なのは咀嚼するように自分のものにしようと理解する意思なんじゃないか。
「とにかく具体的に動いてごらん
具体的に動けば 具体的な答が出るから」(相田みつを)
という詩に支えられて、支えられたはいいが、具体的な形にすることに価値を置き過ぎていたかもしれない。
言語も似ている、と思った。違う言語で話された内容を理解するため、自分の言葉に置き換えることが具体化することだとすれば、その言語のままで内容を理解することが抽象を抽象のまま理解するということではないだろうか。
そしてそれをするために求められる能力を身に付けることが、必要なんだと思った。
文法と単語。世界史と日本語。宗教も芸術も哲学も。
言語という記号そのもののことも。
何を学ぶべきか見えてきそう。私、外大生。
昔深夜番組の「世界遺産」を見たときに感じた、
大丈夫、世界はまだまだ広いんだ、という妙な安心感と快感。
を少し思い出したよ。